(5)祈念(イーシュヴァラ・プラニダーナ)
祈念とは、神のような至高の存在を想定し、そこに身を委ねることとされます。結局は神頼み?と考えると、ヨーガも宗教的なものなのかなと思ってしまうかもしれません。しかし、そのような至高の存在をどれくらい重要視するのかについては、ヨーガの指導者によって、さらにはインド哲学のなかでも意見がまとまっていないようです。古典ヨーガの教科書ともいえる『ヨーガスートラ』では、自分で頑張っても良いし、神様にお願いしても良いというような、比較的ゆるめの道筋をつけてくれています。
それでも、神様なんて急に言われてもどうしようと戸惑うかもしれませんが、もっと身近なところから考えても良いのです。いくつか祈念の具体的にあげてみましょう。
神社やお寺で手をあわせる
森のなかで大きな木があったので、手をあてて目を閉じる
空に浮かんだ大きな雲を見たり、水平線からのぼる朝陽をみてすごいなーと思う
美味しい料理を食べて、このお魚はどこからきたのかなぁと考える
などなど
最後のものは、「至高の存在への祈念」とどんなつながりがあるのか分からなくなってしまうかもしれませんね。
ここでいったん、バリ島のお話をしたいと思います。バリ島の人びとは、毎日何度も手をあわせて、いろいろな神様にお祈りします。私の知人も、朝起きたら20箇所以上にお供えものをおき、お祈りをするそうです。日にち、曜日の捉え方が何種類もあって、その都度、様々な規模、種類のお祭りをしています。バリ島全体で勉強の神様のお祭りをする日もあれば、町内会希望でお寺の記念日のお祭りをすることもあるし、子どもが生まれたら何日めのお祭りというものが何回もあるし、規模もいろいろです。とにかく、そのたびに手をあわせて神様にお祈りし、感謝するのです。日々の生活のなかで繰り返される営みに触れていると、それはもう、私たちが「宗教」といったときに想像するようなものなのかどうかさえ、よく分からなくなってしまいます。
でもおそらく、そうやって手をあわせるたびに、バリ島の人びとは自分という小さな殻をぬけ出して、心を大きな存在のほうに委ねることができるのだと思います。実際、バリ島の田舎の人たちは、あまり自分がどうしたい、こうしたいとか、誰かが好きだ嫌いだとか、そのような「自分」中心の価値観があまり無いように見えます。
欧米の個人主義は、私たち自分自身の独立独歩を追求しようという考えを広めてきましたが、今の社会をみると、それはすぐに「自分勝手」な行動や、「自己責任」といって誰も助けてくれないというような状況に転じてしまいかねません。それとは逆に、私たちは日常のなかで、自分の外へと意識や心を広げる機会がどれくらいあるでしょうか。むしろ、自分が悪い、自分のせいと考えすぎたり、誰かと比べて自分が損をしている、自分はちっぽけだとか、「自分は」「自分が」と考えすぎて、最後には心身共に疲弊してしまいます。
そのようなとき、ヨーガの教え、祈念によって、小さな自分を抜け出して、大きな存在に心身を委ねることができれば、だいぶ楽になるように思います。そう考えると、美味しいものを食べたとき、あるいはむしろ、嫌いなものを食べて損をしたような気分になったときにこそ、このお魚はどこからきたのかな、どんなふうに育ったんだろうというように、自分以外の存在の時間・空間的な広がりを想像してみることから始めてみるのも良いのだと思います。そのようにして、そのお魚について「私の」好き嫌いに関係なく、遠くの海からやってきたこと、そこに関わって自分のもとにお魚を届けてくれたすべての人たちに感謝できると素晴らしいですね。そうしていずれは、自分の存在が多くの人の繋がりや自然の恩恵によって成り立っていること、成り立ってきたことに気づき、自分がただ存在することに感謝できるようになるのだと思います。